「致知」1998年10月号 抜粋

長崎県の時津町に、打坂という急勾配の坂があります。

そのバス停のそばに建てられている記念碑とお地蔵さんの前では、毎年慰霊の行事が行われています。

昭和24年のことです。地元長崎自動車のバスが乗客を乗せて、この坂を登って来ました。坂の半ばに差しかかった時、突然エンジンが故障し、バスは止まってしまいました。運転手はすぐにブレーキを踏んでエンジンを掛けなおそうとしましたが、ブレーキが利かない。

補助ブレーキも前進ギアも入りません。三重のトラブルが重なって、バスはずるずると後退し始めたのです。

 

そのバスには鬼塚道男さんという21歳の若い車掌さんが乗っていました。

運転手は彼に大声で、「鬼塚、すぐ飛び降りろ!棒でも石でも何でもいい、車止めに放り込んでくれ!」と指示しました。鬼塚さんはすぐに外に飛び出し、目に付くものを車輪に向かって片っ端から投げ込みました。しかしバスは止まりません。

乗客のほとんどは、原爆症の治療に向かうお年寄りと子供達で、脱出はとても不可能です。その間にもバスのスピードはみるみる上がっていきます。坂の下は崖でした。ガードレールなどもなく、落ちればバスは大破します。

崖まであと10メートル、5メートル・・・。

全員が観念したところで、バスは奇跡的に止まりました。

我に返った運転手さんは、鬼塚さんがいないことに気づきます。

まだ車止めになるものを探しているのかと思い、乗客と一緒に探し始めます。

ふと、バスの後ろの方を見て、思わず息を呑みました。

そこには何と、後輪車に身を投げ、自ら車止めになっている鬼塚さんの無惨な姿があったのです。内臓破裂で既に息を引き取っていました。

乗客は鬼塚さんを戸板で運びながら、「この方は仏さんか菩薩さんの生まれ変わりだ」と口々に言い、涙に暮れました。

貧しい時代で何もしてあげることが出来ず、また、鬼塚さんの死は一部の人にしか語り伝えられなかったため、次第にその出来事は忘れ去られようとしていました。

それから24年後、乗客の証言に基づいて、その事件が小さな新聞記事になりました。

それをたまたま目にした長崎自動車の社長は、大変なショックを受けました。

「こんな立派な社員がいたことを、我々役員が忘れてはいけない」

そう考えた社長は、その日のうちに役員会を招集し、会社で打坂のそばに記念碑とお地蔵さんを建てて供養することに決めました。

鬼塚さんの供養祭は、今でも続いています。

若くして亡くなられた鬼塚さんの身を挺しての咄嗟の行動は、誰にも真似できないことです。

IT、世界標準化をスローガンをとし美化される中、モラルが軽視されているように感じます。

置き去りにされつつある日本人の心の教育をもう一度考え直す時期ではないでしょうか。